【風が還る場所】
第三章 蒼原の少女
まだ薄暗い夜明け前―――――
辺りは変わらず静寂を保ちつつも、薄っすらと朝露の霧に包まれていた。






ガサッ――――――…






僅かな物音でもこの獣耳は捕らえる。
しかし、瞳は閉じたまま様子を伺った。
そしてその後に起こることなど知り尽くしている。






ガサガサ…






その音は間違いなく人が動く音…
この場から遠ざかる事を示すように音は小さくなっていく。
そしてその音の主は、己が一番よく知る者だ。






「ったく、あいつはいつもこーだ…」






他の仲間達を起こさぬ様に小声で愚痴を漏らしながら、黄金色の瞳を僅かに開く。






(しょーがねーな……)






文句を言いながらも、結局は彼の少女が心配だという本心には勝てず
抱えていた鉄砕牙を腰に携え、少女の後を追った。






(なんだあ?あいつ…いつもなら川でも行って顔を洗うだの何だのってするはず…)






しかし、どうやら彼の少女は川辺とはまるで反対の方向に向かっているようだ。
まだ、薄暗い最中…一体何処まで行こうというのだ。
いつもとは若干異なる行動に少しばかり焦り、早足で彼女の元へと急いだ。
足場の悪かった雑木林を抜けると、一帯は潮の匂いが立ちあがり、足元はザラついた感触に覆われる。
余計な木々がなくなり、視界は十分に開けた。






(いやがった…)






見回らずとも、十分な視界。
少女の姿はたやすく捕らえることが出来た。






少女は自分に背を向けた状態――――






少女の瞳に映るは、間違いなくその先に広がる蒼い草原――――






見渡す限り広大に広がり続ける蒼い海――――






果ての無い様な永遠を思わせるような蒼い景色…






「かごめ」






離れた処から、聞こえるか聞こえないかの声量で声をかける。
だが、かごめの耳には届かなかったようだ。






「かごめ!」






今度は少し声をあげて呼びかけてみる。
それでもかごめはピクリとも反応しなかった。






よほど、海に魅入られているのだろうか…。
かごめの傍まで行こうとして歩み出した足が一瞬にして凍りついた。






かごめが海に向かって歩き出したからだ。
何の躊躇もなく進める足は、打ち寄せる波に向かっていく。
波はかごめの膝辺りにまで浸食した。






「かごめっ!!!」






漸く、凍りついた思考が動き始め、砂地の地面を蹴り上げた。
蹴り上げる際に立ち上った砂埃が再び地に戻る前に、かごめに辿り着くと、すぐ様その身体に腕を回し動きを制した。






「何やってんだっっ!!おめえはっ!!!」
「犬…夜叉?」






動きを止められたかごめは言うと、おれの姿を見て何が何だか分からないという顔をしていた。






「お前、何やってんだよっ!こんな時分に海になんぞ入って!!」
「何って…ちょっと浸かってみたかっただけよ」
「はあ?」






まだ夜も明けない薄暗い中。幾ら何でも海に入るなど考えがたいことだ。






「やだ…。もしかして犬夜叉、あたしが身投げでもするかと思ったの?」
「なっ…」






悪戯そうに言うかごめに、自分が勘違いをしていた事に気づき、一気に顔に血が上った。
だが、それはあまりにも勘違いとは思えない状況だったのだ。






「おめえが紛らわしい事してっからだろっ!!」






よく考えれば分かる。
かごめは決してそんな事をするような女ではない…。






「ごめんね」






かごめは素直におれの瞳を真っ直ぐ見ながら謝った。
さっきの悪戯っぽい表情は何処にもなかった。






「ね…犬夜叉。その…腕…」






未だに背後から抱きしめたままの腕をかごめは気にしたのだろうが、おれは構わず更に腕に力を込めた。






「余計な心配かけんじゃねえ…」
「うん」






かごめはそう言うと、おれの腕に手を添えた。












恐かった―――






例えかごめがそんなことをする筈がないと分かっていても…






昨日の情景を思い出す―――――






この蒼い蒼い海を見つめるかごめの瞳を






近くに居る筈のかごめが遠くに感じた






その時と同じ…いや…もっと、もっと…遠くに






それでもこの腕の中の温もりは心地いい…温かい












とても安心する―――――












「おれが…」
「ん…?」
「おれが“風”なら」






――――おれが“風”ならば…






「お前は…“海”だ」
「あたしが“海”?」
「そうだ…」






昨日…言ったこと覚えているか?






ん?






お前言ったろ?“海”は全ての命の起源だって。






うん。そうよ。






お袋みたいなものだって…だからおれにとってはお前は“海”だ――――。






じゃあ、あたしはあんたのお母さんなの?






そういう意味じゃねーよ。






じゃあどういう意味?






知りてーか?






何よ…自分で言い出しておいて。まわりくどい言い方しないでよ。






お互い様だろーが。






それもそーね。












東の空が明るく輝き出した――――
朝露の霧の帯も何時の間にか晴れ、木々や草達がざわめきだす――――






「お前に似てるんだよ」
「そうかな」
「おれにはそう見えんだよ」
「へえー」






そう…
お前は“海”なんだ――――






《何処までも広くて深い――――。》






それは、お前の心に似てるじゃねーか。






《全てを包み込む――――。》






それは、お前の本質だろう?






《命の源――――。》






おれはお前に出逢って変わった。生まれ変わったようなもんだ。






「荒れ狂ったり、穏やかだったり…おめえみてーじゃねーか」






苦笑交じりに言うと、かごめは頬を膨らませておれを見据えた。






「なんか、褒められてるって感じがしないんだけど」
「気のせいだろ?」
「ったく」






文句を言いながらも、どこか嬉しそうなかごめの表情はまるで今の自分を鏡で見ているようだ。






「“海”が荒れ狂って嵐を起こしたり、穏やかになって凪るのは“風”のせいだろう?」
「そうよ。分かってるじゃない」
「一応な」
「そう。あんた次第なのよね。…ね、“風”さん♪」






“海”は“風”次第でその姿を変える――――






“海”を護れるかは“風”次第…






“風”が“海”に出来るのは、その表面を嵐にするか、凪にするか――――……






表面は、荒れ易い。よく変わる。
それはお前の表情やか弱い身体のようだ。
けれども、決して中までは…本質までは、絶対に侵食させない。






それが“海”であるお前の強さ――――






誰にも侵せない、屈しないお前の心の強さ―――――






「ねえ、夜も明けたし…そろそろ戻らない?」
「どうせ、あいつらはまだ起きちゃいねーよ」






おれ達は先ほどからずっと同じ格好で海に浸かったままだった。
おれは衣の膝辺りまで濡らしていた。
かごめは丈の短い”すかーと”とかいう裾が濡れていた。






「もしかして、甘えてんの?」
「“海”は母なんだろ?」
「さっきは違うって言ってたじゃない」
「ああ、違う」
「何それ?」
「さあな」






そう…お前は決しておれの”おふくろ”じゃない。
お前、昨日言ったこと忘れたのか?












――――“風”は――――












「“海”から生まれるんだろう?」
「ん?」
「“風”のことだ」
「うん。あの“海”の向こうからね」






かごめはおれの腕から手を離し、昨日のように遥か水平線の彼方を指差した。






「そんで、“海”に還るんだろ?」
「そう。“風”は“海”に…還……る」






自分の言葉にハッとしたように、身体を緊張させて言葉をつまらせた。






「だったらこーしてたって構わねーだろ?」
「えっ?それって…」






急に慌てたように言葉を詰まらすかごめの頬は赤く染まっていた。






「なんでえ。おめえも随分鈍いんじゃねーか。人のこと言えねーな」
「あっ…だって…」






いつもとはまるで反対の立場に立ったかの様な状況が可笑しい。
そう、いつもはおれが翻弄されてばかりなのだから。






「かごめ…」






わざとかごめの耳元で低く囁いてみる。
すると、急速にその耳は紅く染め上がった。






「やっ、ちょっと!」
「おめえ、耳弱えんだよな…」






いつもの自分を見ているかのようなかごめの反応は可笑しいのに、可愛らしく見える。
かごめは本当に表情がよく変わる。
見ていて飽きるという事はない。






自分としては、やはり笑顔を所望するわけだが、これがまた不意をつく事が多いのでつい焦ってしまうのが常だ。
今も笑顔が見れやしないかと、何処かで求めている。






余談になるのだが、かごめは確かに“海”のような女だ。
でも、その”笑顔”は”太陽”のようにも思える。
温かくて、眩しくて、誰の心も明るく照らす――――。






”太陽”






でも、自分としては”かごめ=太陽”としたくはない。
”太陽”は遠すぎる。
この瞳に見ることはできる…日差しも感じる…。
でも、どんなに手を伸ばしたって届かない。
それはまるで、かごめの”げんだい”とかいう国とこの”武蔵の国”のようだ。
かごめを完全に手の届かない存在だと思いたくない。
たとえ遠くても、直に感じられる…手の届く存在がいい。
それだけだ。






そんな事を頭に描きながら、ふと目線を戻してみると自分の腕の中に居たはずのかごめがいない事に気づいた。






「なっ、かごめっ?」






一瞬、波に浚われたのかと思ったが、その姿はすぐに確認できた。






「今頃気づいたの?」
「おめーな。驚かせんなよ!」
「気づかなかったのはあんたでしょ!」






バシャン――――――。






「あっ!こらっ!てめえ〜やりやがったな!!」






顔面にひっかけられた海水を衣で乱暴に拭うと、思いっきりかごめに向かって海水をひっかけた。






「きゃっ!!もう〜、服濡れちゃったじゃない!!」
「おめーが先にやってきやがったんだろーがっ!」
「ふ〜ん。そう来るワケ…じゃあ」
「おっ、おい…まさかっ!?」






かごめのあの表情は…間違いない。そう、あの言葉を使う時の眼つきだ。






「ちょっ、待て!それはねーだろっ!!」
「それって〜?あ〜”おすわり”のコトかな?」






バシャンッッ――――――――!!!






言霊炸裂―――






おれの身体は容赦なく海に叩きつけられた。
すぐさま体制を立て直すと、素知らぬ顔をしているかごめに向かって飛翔する。






「て〜め〜え〜〜っっっ!!!この待ちやがれっっ!!!」
「きゃ〜〜〜。犯される〜〜〜」
「なっ、てめえ!言うに事欠いて!!!」
「キャっ!!」






足場の悪い砂地は、容易くかごめの足をすくいもつれさせた。
と同時に、着陸しようとしたおれももつれたかごめになだれ込む形になってしまった。
その様は、傍から見れば男が女を押し倒してる情景にしか見えないだろう。
だが、今のおれはそれどころじゃなかった。






「てめえ、今何つったっ!!いい加減なコト言うとホントに襲うぞ!!」
「あんたこそ、何てコトいうのよっ!!」






真っ赤になって声を上げるかごめの顔がなぜか近い…。
漸く自分達の置かれた状況を理解した。
まさしく自分がかごめを押し倒している状態。






しかも波打ち際だった為、かごめも全身濡れて白い着物の部分は透けて、身体の線がくっきりと浮かんでいた。
また、濡れた髪が頬や首筋に張り付いている様子がまた色香を漂わせ、照らす太陽が雫を反射してまた艶かしい…。






(うっ…///)






朝から何考えてんだと思いつつも、視線を逸らせない自分がいる。
こんな時、自分も所詮”男”なのだと思ってしまう。
まして、このかごめは無防備の極み。
警戒という言葉をまるで知らないのだから困りものだ。






「濡れちゃったね」
「へ?」






そんな自分の葛藤をまるで悟らない台詞。かごめはいつもそうだ。
突然、場の空気を変えてしまうのだ。






「あんた、全身びしょ濡れ」
「おっ、おめえもだろーがっ///」
「ごめんね。言霊なんか言って…」
「べっ、別にっ!」
「怒ってないの?」
「怒ってねー」
「うそ!」
「嘘じゃねーよっ!」






確かに言霊に関してはとうに頭になかった。
どっちかというと、全然空気を察しない彼女の純粋さに思考は支配されている。






だからと言って、別に怒っているわけではない。
ただ、あまりの無防備さに呆れてるだけだった。






「ほら、怒ってる…。ね、機嫌直してよ」






そう言うかごめの物言いは何処か甘えがある。
普段は決して甘えなどしない彼女が自分に甘えるのは正直嬉しい。






「わかった!戻ったら犬夜叉の好きなカップラーメンあげるから!それともポテトチップスの方がいい?」






(こいつは〜〜。この状況でどうして忍者食に干芋っつー発想なんだ?もうちっと場を読んだ色気のある言葉は出ねーのかよ!)






かごめはいつも自分に”でりかし〜”だとか”むぅーどー”が無いと言う。
だが、それは彼女にも言える事だと切に思った。
最も、自分は”でりかし〜”も”むぅーどー”も未だよくわからないのだが…。






「そんなモンいらねー」
「じゃあ、何がいーのよ?」
「何でもいーのか?」
「あたしにあげられるモノならね」
「ほんとにいーんだな」
「だから、何が欲し…っ…ん…」






その色気のある言葉が出ない口を塞いだ。
だが、逃げようとされたので両の手首を無造作に掴み制した。
漸く唇を離すとかごめは真っ赤な顔で口をパクパクさせた。






「これで許してやらあ」
「あっ、あ、あんたねぇ〜〜」
「なんだよ。何でもいーんだろ?嫌だったのかよ…」
「嫌なんて言ってないわよ!」






一瞬、嫌だったのかと思ったが即答で否定されたのでほっとした。
でも、かごめは嫌じゃなかったというのに怒っているようだ。






「じゃ、なんで怒ってんだよ!?」
「怒ってないわ。だけど、不意打ちなんて卑怯じゃない!ほんっと、ムードも何もあったもんじゃない!!何であんたは何時もそうなのよ!女の子へのキスを何だと思ってんのよ!」
「なっ、”むーどー”も何もねーのはお前だろーが!!第一おめーだって忍者食だの干芋だのすっ呆けたことばかり言ってんだろうが!」






未だ押し倒した格好のまま言い争う様。
これこそ、むーどーも何もあったもんではないだろう。






「「……」」






会話が止まったその刹那…。
どちらともなく笑みが零れた。
漸く格好を起こし互いに寄り添うようにその場に座り込む。






「あーあ。あたし達、こんな格好で何してんだろうねー」
「まったくなー」
「なんか、バカみたい」
「ああ、バカみてーだ」






しかし、その他愛ない雰囲気が自分達なのかもしれない。
大人のような背伸びした雰囲気はおれ達には似合いやしない。






こうして、言いたいこと言い合って。






一緒に笑って、怒って、泣いたり、慰めあったり――――…







ふたりだから、他愛ないことも楽しいし嬉しい。












そんなことを思いながら、自分に寄り添うかごめに視線を移した。






自然と瞳が合って…






どちらともなく顔を寄せて…






唇が重なった――――






さっきよりも長くゆったりとした口付け――――……






自然と離れると、今度は2人共苦笑した






「しょっぺぇ」
「ほんと、しょっぱいね」






僅かな”むーどー”も束の間。
笑い合う自分達に吹くのはいつも通りの“風”―――――……






いつもの“風”と“海”――――






今日の“風”はとても穏やかな優しい風。






今日の“海”は“風”の意思のままの凪。






「かごめ」
「何?」
「昨日、お前が言ってたこと」
「ん?」
「“風”は“海”から生まれて…」
「うん」






「そして“海”に還る――――」
「うん」






「だから、おめえはおれにとって“海”だ」
「ありがとう」






その日、一番の笑顔はこの時に零れた―――――






“風”は“海”から生まれて、そしてまた“海”へと還る―――――――






“風”はおれ






“海”はお前












“海”はおれの還る場所――――






おれの居場所――――






ずっと欲しかった、大事な居場所






おれの居場所はお前の隣






お前がおれの居場所












―――――“風”の還る場所は“海”―――――











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